SHOBI 100th Anniversary Interview
公益財団法人 日本音楽教育文化振興会 会長
赤松 昌代様
尚美学園が100周年を迎えられたということで、これまでの歩みを軸にお話を伺えればと思います。まず、学園との出会いからお教えください。尚美学園の元理事長である赤松憲樹先生とのご結婚後、学園に深く関わるようになったと伺っています。
最初は、私塾として開設された尚美学園を大きな大学にしたいという、主人と義母の情熱から始まりました。まず、学校法人として認可してもらうために、二人は文部省へ申請に行ったのですが、『申請するには妻帯者でなければならない』と言われたそうなんです。
条件があったんですね。
ええ。申請者は妻帯者に限るという条件があったんですね。当時、後の夫となる憲樹は独身ですから、赤松家に入って一緒に学園を盛り立ててくれる人を探さなければいけない。そこで、義母がいわゆる公募の“嫁探し”を行うことになります。芸大出身であるとか、音楽に携わっているとか、かなり厳しい条件があったように思いますけど、幸いにして応募者もたくさんいたそうで、その中から私が選ばれました。その後、お見合いをして、私は赤松家に入ることになります。主人も義母も大学を作るということにとても情熱を持っており、その流れに私も加わることになったということですね。
当時、尚美学園はどのような環境だったのでしょうか。
今の立派な大学からは想像もつかないと思うのですが、当時の尚美学園は小さな音楽学校だったんです。昼夜の二部制でしたので、夜学では工場や印刷所で働いていた学生たちが作業着のまま集まって、音楽を学んでいました。夕方の5~6時頃に来て、みんな汚れた格好のままトランペットを吹いたり、授業を受けたりして、帰るのが夜の10時半とか11時とかですね。もう50年以上も前の話ですが、今でも当時の光景を思い出します。
みなさん、夜遅くまで学校にいたのですね。
私も当時はあまり寝た覚えがありません。もう公私の区別なく、ずっと一生懸命だったように思います。学生たちともまるで家族のように接していましたし、印刷工場で働いてきた手が真っ黒な学生たちに、毎日のように私がうどんを100杯くらい作って、ふるまったりもしました。主人も夜中まで学生たちと交流し、一緒に歌い、麻雀をしていましたから。2~3日くらいなら寝なくても平気な、とてもパワフルな人でした。
昌代様は、学園や寮の運営も担当されていたそうですね。
ええ、それはもう大変でした。寮運営の大変さは特に一番記憶に残っていますね。尚美学園の寮は最初、普通の住宅を2~3軒借りるところから始まりました。その後、100人くらい入れる女子寮を朝霞に、男子寮を西所沢に設けたんです。男女を一緒にはできないですから、少し離れた場所にしました。入寮者の選定も大事で、『このまま放っておいたら心配だな』という学生を優先して入れることもありました。しっかりしている子は自分でマンションを探して一人暮らしができますけど、地方から出てきた学生が多かったものですから、生活面も含めて支える必要があったんです。食事もすべて手作りで、学生や職員のお弁当を作り、昼夜と学園まで運んだこともありました。50年前は今のようなお弁当の配達サービスもありませんでしたからね。
まるで学生たちの母親のようですね。
そうですね。寮ができたばかりの頃は、私が自ら車を運転して、川越街道を走りながら両方の寮を行き来していました。庭で焚き火をして、焼いた焼き芋を学生たちみんなで食べたこともありましたね。
生活のすべてを支えていたということですね。
寮の管理も、食事づくりも、学生の面倒も、全部やっていました。でも学生が無事に生活して学べるようにすることが私たちの仕事ですから。学生たちを立派に育てて、音大に入れたり、良いところに就職させたりするのが、私たちの本業だと思っていましたので。
その後、学園はどのように発展していったのでしょうか。
学校法人の認可を受けた後、1981年にまず短大ができ、その後、4年制大学へと発展していきました。短大を作るまでが本当に大変で、土地の取得や建物の建設など、苦労の連続でした。特に尚美学園にふさわしい先生をお招きするのは、とても大きな課題だったと思います。一方で、短大から4年制大学になること自体は、比較的スムーズでした。ただ、そこに至るまでの段階が何より大変でしたね。
当時の象徴的な存在として、「バリオホール」というホールがあったと伺いました。
はい。現在も尚美ミュージックカレッジ専門学校校舎の中に尚美バリオホールがございますけど、それとは別のホールです。取り壊されて、今はもう存在していませんが、かつては壱岐坂の近くにありました。そのバリオホールは主人がゼロから構想した音楽ホールで、音響を考えた非常に独特な施設でした。声楽、ブラス、ピアノなど、それぞれの音の違いに合わせた反響を持たせる設計になっていて、いわば“バリエーション”のホールだったんです。このホールは国内外から注目されて、ラジオ局や海外からも取材が来ました。主人が直接フランスへ行き、資料を集めて設計したもので、日本中の音楽関係者が見に来ていましたね。
まさに学園のシンボルですね。
そうですね。フランスの作曲家であるピエール・ブーレーズさんも来てくださって、初代館長を務めていただきました。本当に、日本はもとより世界中から音楽家が訪れて、交流が生まれたり、コンサートを開いたりと、素晴らしい経験をさせていただきました。作曲家の諸井誠さんなどは、主人の考えに共鳴してくださって、家族のように親しくさせていただきました。このホールがあったからこそ、立派な先生方を尚美学園にお招きできたという側面もあると思います。
バリオホールの設計もそうですが、赤松憲樹先生の尚美学園にかける情熱はすごいものがありますね。
とても前向きで、常に新しいことに挑戦する人でした。例えば、当時エレクトーンは電子楽器ということもあって、教育課程上の扱いが限定的だったんですね。ただ、全国的に流行り始めていましたし、尚美学園でもエレクトーンを学びたいという多くの声がありましたから、音楽コースにエレクトーンを取り入れなければなりませんでした。そこで主人は、ヤマハと協力体制を作りながら、エレクトーンを認めてもらうように、文部省と交渉を重ね、その必要性を訴えて、認可を実現したんです。
それはすごいですね。学生を集めることにも精力的だったとお聞きしました。
自ら全国の高校を回って学生募集を行っていましたから。募集要項の紙を幾束も持って、一人で車を運転しながら、北は北海道から南は九州まで全国の高校の校長先生に直談判しに行くんです。すると、音楽のことを知らない校長先生も、主人が直接訪ねてきたことに感動して、学生をたくさん送り出してくれました。おかげさまで、尚美学園の受験課も手が回らないくらい忙しくなって。私も出先の主人から『募集要項の紙が足りないから、持ってきてくれ』と言われ、飛行場に届けに行ったこともありました。
そうした努力があって、尚美学園の規模も大きくなっていったということですね。
芸大の予備校として始まった尚美学園において、どのように学生を受験させて、合格させるかも重要ですが、演奏家にならなくても、音楽に関わって裏方で音楽を支える人材を作ることの重要性を主人は説いていました。
そんな尚美学園が100年続いた理由は何だとお考えですか。
やはり教育への情熱と、新しいことに挑戦し続ける姿勢だと感じています。学校を作る際には地元の反対もありましたが、一人ひとりに理解してもらいながら進めてきました。その積み重ねが、今につながっているのだと思います。印象的なのは、教育養成課を卒業した学生の多くが校長先生になり、教育者になっていることです。今もみなさんと連絡を取るたびに、交流の日々が思い出されますし、教育への情熱と尚美学園の精神である“智と愛”が変わらずに引き継がれていることを嬉しく思います。
最後に、この先の100年に向けて、学園の関係者や在学中の学生へメッセージをお願いします。
これからは国際的な取り組みがますます重要になります。尚美学園には、海外でのコンサートやコンクール、国際交流を積極的に進めてほしいと思います。柔軟に時代の変化を受け止めながら、これまでと変わらず、挑戦を続けてください。そして、一番大切なのは日々の努力です。人に見えないところでコツコツ練習した人、学びを積み重ねた人が最終的に花開きます。良い先生や環境があっても、それを生かすのは一人ひとりの個人であることを忘れずに、自分を磨いていってほしいですね。